今度はエビサンドに食らい付いた。甲殻類は苦手だが、ここのエビサンドのエビは好きだ。他所の店では、絶対にエビは勿論、エビの加工食品も僕は食べない。甲殻類は苦手なのだ。グロテスクだからだ。
てらてらと外界の物は撥ね付けますとばかりに、身を覆う甲冑。繋がれた板やみっしりと覆われた甲羅を剥ぐ様を思うだけで、暗い気持ちになる。そもそも、奴らは海の中をちゃんと泳いでいるんだろうか。海の中の生物は興味もなかったのでまったくもって専門外だ。ためしに泳ぐエビの姿を想像するが、あまりぴんと来ない。あの広大な海の中、エビ一匹、泳ぐ絵は見た目が悪い。どうせなら、そう、大きな魚とか。すいすいと思うままに水の中を彷徨う。大きな魚か。魚類は比較的、好きだ。大きな体を持つものといえば、鮪とか?マンボウとか。
水族館で見た間抜け面を思い出し、思わず笑う。ナポレオンフィッシュ。マンボウよりも賢そうだ。賢さで言ったらきっと、イルカの方が上だ。ああ、ジュゴンも白くて奇麗だった。
先月、キースと二人で行った海洋水族館は、けっこう楽しめた。宣伝文句が良かったのだ。幻の白い鯨、出現!水族館の前には大きなのぼりも立っていた。学内でも噂が飛び交っていてそのくせ、実際に見に行った奴の証言がないのも興味を引かれた。
家に帰り、徹夜明けのせいでいつもより、かなり陽気な同居人に、何となくその話をしてみたら、行こうと腕をひっぱられ家から連れ出された。その後、水族館に着くなり館内待合所の椅子で寝入ってしまった馬鹿はそのままにして、ゆっくりと一人で滅多と来ない海の世界を楽しんだ。
目当ては当然、白い鯨だ。
ぐるぐると回遊式になっている館内を巡り、最後に行きついた広間で、大きな水槽に出くわした。水槽の前にある掲示板には、白鯨、の文字。その下には、何でも願い事を二つ叶えてくれるという言い伝えと、なぜ白い鯨が存在しているのかという研究者の考察が続く。その部分は適当に読み流したせいで覚えてはいないが、願い事を叶えてくれるという行には心をときめかせた。それから、水槽を見上げ。
「シロエ、見て!この旗、鯨が描いてある!!」
呼び戻される。その感覚が気持ち悪く、手にしていたサンドウィッチから手を離した。
案外、トォニィは子供っぽい。事実、彼はまだ子供だ。いくら見ているこちらをはっとさせるような表情をしたって、彼の幼さはぬぐえない。それで良い。
見えるように、わざわざ身を乗り出して旗を振る彼は、楽しそうだ。今日、初めて会ったが相性は悪くないようで、正直、安堵した。何せこれから長い付き合いをせねばならぬのだ。お互いに、気心知れるまでは時間は掛かるだろうけれども、スタートラインが揃っていなくては流石に辛い。共通の好みが良い方向に作用してくれて本当に、良かった。
兄はこの子とどういう風に接していたのだろう。さして深くも考えずに、たゆたう記憶の余波をそのまま、自分は口に出していた。
「トォニィ。白鯨を見に行かないか。」
振られていた旗が、ぴたりと止まる。そこでやっと、自分は今度こそ現実の世界に帰還した。引き潮のように、トォニィから幼い少年の顔が薄れて、大人びた眼差しが現れる。
「海洋水族館でしょう。・・・・あの人が誘ってきた。視えないくせに。」
彼の言い様に、この数時間で常と比べ、すっかり穏やかになってしまった自分は、やんわりと言う。
「保護者らしいじゃないか。」
気に食わなかったのか、違うだろう。きっと本人も彼女の気遣いは分かっているはずだ。受け止める事を拒否するかどうかは、その人の自由だけれど。オレンジジュースのストローに噛み付いて、くぐもった声が聞える。
「グラン・パが誘ってくれたなら、僕は迷わず行きました。」
ず、と飲み干されたジュースが、耳障りな音を立てるのにもう何度となったか知れないが、懲りずに眉を顰める。
「なら僕が誘っても?」
ぱ、と口からストローを離したトォニィは、意外そうな顔で僕を見る。
「デザートがまだきてない。」
そう言って、僕の皿に手を伸ばし、まだ手をつけていないカニサンドを、彼は一切れ掠め取っていった。思えばまだスープにも手をつけていない。デザートを食べ終え、席を立つ頃には良い時間になっているだろう。
「昼寝してるかもね、白鯨。」
「まさか、」
二人分の入館料を計算し、これはキース先輩を頼るべきだなあ、とポケットの財布の重さを測り、大学へと目線を向けた。南中を達した太陽の、焼け付くような暑さに白亜の建物は、その身を晒けだし、じっと耐えている。
雲ひとつない青空とはよく言ったものだが、見上げた空は、まさにその言葉通りで、突き抜けるような潔さを持ち、高い広がりを見せている。遠くに見える電波塔が、まるで天井を支える支柱のようだ。まっすぐ地上から生えているはずなのに、大気の歪みか少し傾いて視界に映る。かすんで見えない天辺は、どうなっているのだろう。
「風に吹かれてる。」
割って入ってきた少年の声に、思考を読まれたかと目を瞠った。しかし指先は、大学の屋上に掲げられた校旗を差している。
「ああ、」
曖昧な返答に、どうでも良いのか、トォニィはもう一度、風だ、と呟いて後はプリンに興味の矛先を変えてしまった。
とりあえず、連絡を入れよう。財布が入っている方とは逆のポケットから、コインを一枚取り出して、一緒に出てきたくしゃくしゃのメモの切れ端に、伝票に備え付けてあるペンで七桁の番号を書き殴る。手を上げて店員を呼び、伝言を頼んでコインを渡し、まだきていないデザートを持ってくるよう催促した。
「よく来るの?」
一連の流れを見ていたトォニィからの、素朴な声が寄せられる。
「一応、馴染みではあるね。」
そう言って、赤いスープにスプーンをひたした。
「グラン・パもね、そうやってよく、お姉さんと話してた。」
「ウェイトレスと話すのが目的ではないとだけ、ジョミーの名誉の為に言っておきましょうか」
スプーンで緑が新しいピーマンを掬い上げ、口に運ぶ。昨日読んだ、童話に出てきた地獄の池を思い出したら、もうとっくに冷めているはずだろうに、何だか口の中が燃えるように熱くなる。噛み下したピーマンの青さは、土と太陽の味だ。
「何が書いてあったの、手紙。」
「家へ帰れ」
「それだけ?」
「他にもいっぱい。好き勝手、書いてある。さすがはソルジャー・シン。」
「ソルジャー?」
「兄さんのあだ名だよ。通り名とも言う。」
「戦士が?」
「ああ。本人がそう呼べって煩いんだ。聴いた事ない?誰かがそう呼んでいるの。」
「ない。」
「そりゃ、ラッキーだ。ソルジャーと呼ばれる時の兄さんは、恐い。」
「厳しいの?」
「そうですよ、とっても厳しくて、怖ろしい人なんです。・・・・僕にはそう見えた。」
「会ってみたいな。ソルジャー。」
「やめておいた方が良い。」
「だってグラン・パだもの。僕はきっと好きになる。」
確証めいた少年の予言は、おそらくは彼の言うとおりになるだろう。この短い間に自分が彼について分かった事は、彼が盲目的と言い逃れるには気味の悪い愛情を、ジョミー・マーキス・シンに対し持っているという事だ。狂気だと、言い切ってもいい。トォニィの抱える兄への親愛の情は、弟である自分が持つそれとは比にすらならない程に重い。
「仲良くやっていこう、トォニィ。僕らはもう家族だ。」
「僕は最初から、そのつもりだよ。だってグラン・パがそうしなさいって言ったもの。」
知らず、背筋がぞっとした。
ジョミー・マーキス・シン。あなたは一体、何なのだ。
眼前で微笑む少年の、心中は量り得ない。が、彼との繋がりははっきりとある。
「ジョミーはとっても奇麗な目をしてた。僕はあの目が大好き。」
「トォニィ、僕らは気が合う。」
一対の、緑柱石はどこまでも澄んで、どこまでも見通す強さで世界にあった。彼の見つめるその先を、僕らは知る術すらも持たないけれど。
「せめてその背中を追いかけるくらいはやるべきだ。」
遠い白の世界を思い描き、行き着く先はどこかも分からぬ未知の場所。
あなたがいるであろうその場所に、はたして僕らは辿り着く事が許されるのか。
ソルジャー、僕らは。
序章・幕
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